64東京五輪公式服 石津説ではなく望月靖之デザイン
「定説は疑え」とはこのことか!と思う、講演会が先月末に行われました。1964年に開催された東京五輪の公式ユニフォームをデザイン制作したのは、神田の仕立て服屋だった望月靖之氏でした。それがいつの間にか、石津謙介デザイン説が定説化し、現在に至っているというのです。
JOA(日本オリンピック・アカデミー)研究フォーラムとファッションスタディーズの共催セミナーで、服飾史家の安城 寿子氏が、この経緯を詳細な資料とともに解き明かしてくれました。
望月靖之氏は、1910年山梨県鰍沢に生まれ、1930年に神田に「望月洋服店」を開業し、戦後「日照堂」と改称して大学やスポーツ団体の制服を多数手がけたそうです。1952年のヘルシンキ大会で、五輪選手団の公式服を担当します。このとき以降、デザインは望月氏、生地は大同毛織(現ダイトーリミテッド)、仕立てはジャパンスポーツウェアクラブのトリオで、オリンピック公式ユニフォームがつくられるようになったといいます。当初は青いブレザーにグレーのズボンというきちんとしたスタイルでしたが、次第に白に赤の縁取りなど、赤が組み合わせられるようになっていきます。これには秩父宮殿下からの助言「ブレザーは本来、赤色」や、歌舞伎の「日ノ本の国、日本」というセリフのイメージがあったと推測されています。
赤いブレザーはその後、メルボルンやローマ大会でも提案されましたが、却下されてしまいます。「男性が赤を着るのは変だ」とか、「共産主義を喚起させる」など、いろいろな理由があったようですが、東京五輪でついに受け入れられることになったそうです。(左がその時の男性のユニフォーム)
これがどうして、石津デザイン説に塗り替えられていってしまったのか、本当に不思議です。安城氏は、80年代頃に、雑誌媒体で歪曲されて伝えられたことが原因ではないかと指摘しています。コラム記事などで掲載され、それが通説となって流布していったというのです。石津謙介氏といえば、アイビールックの生みの親で、“メンズファッションの神様” とまで仰がれた方です。ですから、そう言われれば誰もが信じたのでしょう。
今やネット上などバーチャルの進展もあり虚偽がまかり通る時代です。米国大統領選挙もそうでしたが、デマを真実と思い込んでしまう人が何と多いことでしょう。
史実が歪められて伝えられるとは、本当に怖い話です。
メディアというものの責任の重さを改めて感じたご講演でした。
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